大会概要
歴史
土浦全国花火競技大会は、大正14年、土浦市文京町にある神龍寺の24代住職であった故秋元梅峯師が、霞ヶ浦海軍航空隊と親交が深かった(大正13年3月から14年12月頃まで山本五十六元帥も神龍寺に下宿していて、現在、新潟県長岡市にある五十六像も当初は神龍寺にあった)ことなどから航空隊殉職者の慰霊と関東大震災後の不況で疲弊した土浦の経済を活性化するという趣旨で、私財を投じ霞ヶ浦湖畔で開催したのが始まりです。そして、この花火大会が不況にあえぐ商店街に好況をもたらしたことから、地元の商業者の協力を得られるようになり、以来、土浦をあげての行事として年々盛大に開催するようになりました。土浦の花火の特徴の一つとして秋に開催していることがあげられますが、これは実りの秋を祝い、農民の勤労を慰めるという意味もありました。
花火競技大会初期の記念写真
(中央前列が秋元梅峯師)
途中、第二次世界大戦による中断がありましたが、戦後いち早く復活し、昭和21年9月に第14回大会として再開しました。
大会は、尺玉(10号玉)を中心に2日間にわたって開催していましたが、天候による審査への影響等もあり、昭和34年から現在と同じ1日間の開催に変更しました。
打上場所も何度か移転しており、霞ヶ浦湖畔や桜川匂橋付近で打ち上げたこともありましたが、昭和46年(第40回)から現在の桜川畔大曲付近で開催しています。
競技の中でも、スターマインの歴史は土浦の花火の歴史とも言えます。スターマインは、いわゆる速射連発のことを言い、数百発の花火を絶妙なタイミングと多彩な変化で秋の夜空を彩る光景は圧巻です。今でこそ各地の花火大会でフィナーレを飾ることが多いスターマインですが、以前は仕掛花火の裏打ちとしてしか扱われませんでした。土浦では、昭和34年(第28回)に「速射連発の部」を競技部門のひとつとして独立させました。(昭和57年(第51回)から「スターマインの部」へ名称変更)競技部門として独立以来、花火師の誇りと名誉をかけた熾烈な競争が繰り広げられ、「スターマインの部」は土浦の花火を代表する重要な部門に成長しました。
土浦の花火大会は、「スターマイン日本一」を決める大会とも言われています。花火師たちは、多くの時間と労力を注ぎ込み、数百発の多種多様な花火を組み合わせた土浦仕様のスペシャルスターマインを持ち込んできます。テンポ良く絶妙なタイミングで打ち上がる精魂込めて作られた色とりどりの花火の迫力は圧巻で、観る人の心をとらえて離しません。
現在は、スターマインの部の優勝者に経済産業大臣賞、10号玉の部の優勝者に中小企業庁長官賞、創造花火の部の優勝者に茨城県知事賞がそれぞれ授与されており、これらの賞を取ることが花火師にとって最高の栄誉となっています。さらに、平成12年からは、3部門の優勝者の中から煙火技術の向上に貢献し、観る人に感動を与えたと認められる最も優秀な花火師に内閣総理大臣賞が授与されるようになりましたが、これは、数ある花火大会の中でも土浦と大曲の花火大会だけに授与される賞で、全国の花火師たちの目標となっています。
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