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土浦藩關流古式炮術(土浦市指定文化財)
今から約400年以上前の戦国時代に、ポルトガル人から伝えられたといわれている鉄炮。
鉄炮は、それまでの戦い方を一変させ、またたく間に全国各地に広まりました。そのような時代の中、關八左衛門之信(せきはちざえもんゆきのぶ)を開祖とする關流炮術(せきりゅうほうじゅつ)は生まれました。戦国の世が終わり平和な時代が訪れた後も、武士の心身鍛錬の武道として土浦藩が育てた大口径の火縄銃は、日本で唯一の炮術として現代に伝えられてきました。
關流炮術の公開演武会場となっている亀城(きじょう)公園本丸広場では、迫力ある演武を披露。特に土浦市指定文化財の大筒(おおづつ)「谷神(こくしん)」、「抜山銃(ばっさんじゅう)」による爆裂音は、訪れた観客を圧倒します。
※現在、諸般の事情により關流古式炮術の公開演武は行っておりません。
關流炮術の歴史
關流炮術の初代は元米沢藩上杉家家臣關八左衛門之信(もとよねざわはんうえすぎけかしんせきはちざえもんゆきのぶ)で、同藩霞流(かすみりゅう)炮術の祖丸田九左衛門盛次(まるたきゅうざえもんもりつぐ)に師事し、元和3(1617)年、22歳のときに奥義を窮めました。ここでさらに一流の炮術家をめざして、関東をはじめ諸国をめぐって多くの炮術家と接し技を磨きました。
やがて修行を積んだ之信は、關流を開きます。しかし、關流というのは通称で本来は南蛮流(なんばんりゅう)と名乗っていたようです。また、關流独特の工夫・改良を取り入れた鉄炮を、近江国(おうみのくに)(滋賀県)まで足を運び当時の鉄炮づくりの第一人者であった丹波大掾橘宗俊(たんばだいじょうたちばなむねとし)に注文しています。
關流炮術には、小目当(こめあて)と呼ばれる15間(約27m)先の的を狙う射撃と町打ちと呼ばれる大口径の筒を使っての遠距離射撃があります。江戸時代前期には、多くの大名炮術家や見物人の前でその技を披露し、關流が世に認められるようになりました。
之信(ゆきのぶ)の後、關流炮術は之信の2人の子である長男昌信(まさのぶ)と二男勝信(かつのぶ)に受け継がれました。昌信およびその子孫は土浦で炮術指南にあたり、勝信およびその子孫は江戸藩邸で炮術指南および諸役を勤め、藩内外に幕末まで炮術を伝授しました。
關流炮術の修行は、侍士分以上の者に限られ、入門から免許皆伝までに10年間を要しました。免許を受けた門弟は、諸国の大名、藩士にまで広く及びました。
初代:關八左衛門之信(せきはちざえもんゆきのぶ)
慶長元(1596)年~寛文11(1671)年
(900目玉筒:最大射程36町=約3927m)
写真下:「抜山銃(ばっさんじゅう)」
(250目玉筒:最大射程26町=約2836m)
【關家系図】
關流炮術の特徴
關流は、炮術、火術、兵法など全般に及びますが、特に大筒町打(おおづつちょうう)ちを特技としています。十文目玉筒(じゅうもんめだまつつ)から始まり三百目玉筒で免許、さらに五百目玉筒、奥伝(おくでん)九百目玉筒まで修行しました。關家代々の嫡子(ちゃくし)たちは、炮術を伝授していくために幼いころから修行に励み、元服(げんぷく)を迎えるころには、すでに一流の域に達していたと思われます。
常時の稽古は、各流派とも弓術と同じ15間(約27m)の藩邸内星場(ほしば)で行われましたが、町打ちは領内の広野に100間(約182m)から36町(約3927m)の打ち場を設けました。
打ち場から発射された玉の行方は、4本の合図旗によって報告されました。放たれた大玉は、打ち場から3キロメートル以上離れていても3m近くも地面にめり込む威力をもっていたといわれており、的の周りには、的中の場所を確認する人が玉から身を守るための防護壁がつくられていました。
關流の火縄銃は、独自の仕様で近江国(おうみのくに)(滋賀県)の国友丹波(くにともたんば)並びにこの技術を受け継いだ鉄炮鍛冶(かじ)に指名特注されて、火薬、操作、照準などすべて伝書(でんしょ)、口伝(くでん)により、長い年月の修行を積み重ね、命中精度は極めて高いものでした。そして、多くの見物人が集まる町打ちは、武道の披露だけでなく、土浦藩にとって藩の武威を示すための演武でもありました。
【關流火縄銃の特徴および各部の名称】
写真で見る關流炮術
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映像で見る關流炮術
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